kobore banashi

2023


植物と残土

私の住まいのほど近い場所に残土置き場があった。

毎日多くのトラックが出入りし、砂や土を出し入れしている様子が伺えた。

残土置き場の真横には真新しい一軒家が並んでおり、日中の砂埃をその白く塗られた壁面一杯に浴びていた。

ほどなくして毎日見かけていたトラックの姿を目にすることはなくなった。

そのことにに気づいたときには、残土置き場の高い囲いはなくなり、広々とした敷地が整備されていた。

それから数ヶ月が過ぎ、春を迎え、整備されたその敷地から繁殖力の高い長実雛芥子(ナガミヒナゲシ)が大量に自生していた。

まるで花を愛でる為に整えられた公園の草花のように、ゆらゆらと乾鮭色の群れをなして揺れていた。

見た目のかわいらしさとは裏腹に、その繁殖力の強さや手がかぶれるなどの毒性から注意が必要な植物だが、私は毎日その姿を目にするのが楽しみとなった。

長実雛芥子が種を付け、その役目を終えた今、残土置き場は私の背丈ほどにも伸びた深緑色の名もわからない頑丈な草で鬱蒼としてる。

あれほど砂埃を巻き上げていた残土置き場は、今や住宅地に突如として現れたジャグルのように佇んでいる。

その異様な光景は常に変化し続け、私の好奇心をくすぐる。

あと二十数年若ければあの叢の奥地を目指し、水筒を肩にかけ、程よい太さと長さの木枝を杖代わりに、一夏の冒険に繰り出していたことだろう。

7.10


植物と夜風

日々の暮らしにおいて花を愛でる習慣が身近に備わっているということはなんと素晴らしいことだ。窓越しからふわっと流れてくる夜風を身に受けながら、淡くくすんだ小さな花瓶に生けてある、ふわふわのこうべを傾げた薄紅色の薊を目にして思う。

しかしながら花を扱うことが生業となってしまった身からするとそういった気持ちは意外にも頻繁に訪れるものではない。

それは六月の、梅雨の合間の涼しげな夜風が舞うほんの僅かに気持ち安らぐ間ほどだ。

忙しなく過ぎていく日々にほんの僅かでも花を愛でられる時間が訪れるということはなんと素晴らしいことだろうか。

6.26


植物と猫

愛猫と一緒に暮らす日々というものは癒しであり心が安らぎ穏やかな時間が流れるものだ。

実家を離れるまでの短い間、僅かではあったが子猫を引き取り暮らす生活の日々が今でもきらきらとして鮮明に胸の内に現れる。

一般的に植物と猫は相性が良くない。

それは決して猫が植物を嫌ったり、またその逆があるわけでもない。

猫の好奇心をどうやら植物が強く惹きつけるようだ。

他所からやってきた動かないそれらはイタズラ好きの猫達からするとかっこうの遊び相手になってしまう。

久しく飾っていなかった花を買いに出かけ、水揚げし、花瓶に移し、花を愛でる。ようやく一段楽してふと別のことに気を移すと、そらみたことか。ちょっと目を離した隙にもうイタズラが始まる。

自由奔放にこららの気もしらずに久々の花達もやっぱりやられた。

そんな思いをした人も少なくないことだろう。

かく言う私も実家に送った花が案の定あの強い好奇心に当てられてしまった。

子猫から成猫になった今もその愛らしさは何ら変わることはない。

花屋として植物と猫の共存を模索し続ける日々だ。

6.24


植物と公園

近所に大きな公園がある。緑生い茂るその公園は、春は桜で色付き、初夏は新緑で心くすぐる。

たくさんの子供達が原っぱを駆け回る。

ベンチに腰掛けた立派な髭をたくわえたご老人が少し早めの昼食をゆっくりと楽しんでいる。

近所のお店でテイクアウトしてきたのだろう。プラカップに入った瑞々しいサラダ。飾り気がなく「本場」を感じさせる荒々しいサンドイッチ。ストローが挿さった容器に水滴が浮かぶアイスティー。

私はもっぱら駅から自宅までの道のりの途中にあるその公園を決まったコースで歩き過ごす。

梅雨の時期は道草がグングン伸びて辺り一面を鮮やかな青葉が覆う。

朝方に降った雨水を浴びて薄く滴る姿が眩しい。

大きな袋を両手いっぱいに抱え、私は優雅な時間を過ごすご老人を脇目にいそいそと歩き過ぎるばかりなのであった。

今日のお昼はチョコレートだ。アイスティーは加えよう。

6.20